2016年10月一覧

優勝セールなんてもうやめれば? いつまで野球にしがみついてるの?

野球は旬の過ぎた見世物 もう野球は国民的スポーツではない。 「興味がない人には届かない程度の影響力」しか持っていない 安くないと来てくれないのであれば、その人達が必要としているのはモノであってお店ではありません。 「相性の良いお客」と組まないと負担が大きくなるばかりなんですよ。 人間の持つ限りあるエネルギーの無駄遣い

守るのは正しさではなく、心じゃよ!

人間は様々な理屈を用いて自分の正当性を主張します。「理論武装」と呼ばれるやつですね。 ただ、そういう理論武装を下敷きにした意思疎通はある意味「かっこ悪い」んですよ。 「正しさ」には不思議な魅力があります。 正しさを武器に何かを為そうとする人は姿形のない誰かに自分を委ねているのと同じです。 「自分の理」が見つかるのです。

客を選ぶ店を選ばなければならない。

「お客さんは店員を人間だと考えていないな」 どんな立場を与えられようが、人間が機械になれるわけがありません。 「気に入らない店員に食って掛かっている」わけではなく、 「食って掛かりたいから気に入らない部分を探している」だけなんですよ。 性質の悪い客の相手をするという「人の消耗」を排除すべきコストと認識していないのです。

不謹慎とか自粛とか叫ぶ人は人間ではない。

人間は自分と他人を「どうでもいいものとして割り切れる」能力があると思うんですよ。 闘争が人間の本能だと言うのなら、この「スルー力」は理性の象徴とも言えます。 他人からの暴力(言葉の暴力とかも含みます)に脅かされる領域には、 「人間が育ってない」ということでもあるのでしょう。

生きている価値のない人へ。

ただ「いてもいなくても大して変わらない」と「いない方がいい」は全く異なっていて、後者の考え方はあり得ないと思うんですよね。 「僕が生き続けること」は「僕が失わせ続けるもの」に見合うほど意味のある行為なのか。 本来僕の生命は「世界」と表現され得るもの全てに匹敵するのですよ。 「全く問題ありません! 反省しません!」

生きづらい人は世界設定を見直す。

でも人間は、自分で自分を息苦しく、いや「生き苦しく」している部分もあるんですよ。 誰もがこんな人生を歩めるわけじゃないのは、今の時代に生きる人ならご存知のはず。 あるいはそんな地点を通り過ぎて、諦観の域に達している人も・・・それどころか、中高年の二人に一人くらいは自分の人生を「どうでもいいもの」として捉えているのかも。

心の悩みを抱えた人がやってはいけないこと。

例えば 「なんで自分の頼みを聞いてくれないの!」 とか、 「なんで自分の思い通りにならないんだ!」 みたいな憤りを普段から抱えてる人って、 「他人や社会は自分の期待に応えるべき」 っていうちょっと図々しい信念があるわけです。 悩みをなくすというのは自分をなくすのと同じです。

一対一にこだわらない。

「自分はこういう人間だ」と決めて、「一つ」にするなんてそもそも無理だと思うんですよ。 大事なことは「自分の中の十人」と「他人の中の十人」の「合わない」部分を意識すること。 やっぱりこの人とは合わなかった、というケースほど自分を消耗させることはないのです。 その誰かとの関係を保てなかったのはまさに「縁がなかった」んです。

他人と違うレートを持つ。

「自分にとって必要だから価値がある」か「他人にとって必要だから価値がある」か。 名画や名著、高級菓子や年代物のワインなどの面々は「人に価値を与えられた」のであって、 実用品のように「必要があったから価値がついた」わけではないのです。 心の贅肉を削ぎ落とせます。次の日ちょっと身軽になったように感じますよ!

「会社は遊びじゃない」なら「社員は仲間じゃない」。

「自分の大切なあの人は勤め人として模範的な行動を取り、その結果不幸な事故に遭ったとしても、そうした行動自体を誇らしく感じます」 仲間意識を社員に求める会社は、実質的には「会社」ではなく「共同体」です。 その会社は、あなたを「社員として」大事にしてくれてますか?  あなたに「戦友」であることを押し付けてはいませんか?