全行動の発端は情である
僕は感情を失った人間はロボットや動物にその存在自体が劣ると思っています。
人間はロボットのように疲れを知らず、文句も言わず、ハイペースで働き続けられません。
かといって、動物のように自らの肉体を武器に、野生で生き延びるには脆弱すぎます。
人間の高い知性とそれを活かす執念、そういったものを生み出すのが「情」です。
人間を人間たらしめているのは紛れもなく情なのです。
もっとも、人間でいられることが誰にとってもベストだというわけでもありませんが、
何にせよ人間の行動は「○○したい」がその根底にあります。
しかし、人間は情の導くままに好き勝手に行動できるわけではありません。
それを防ぐ機構が自分自身の心の中と外に存在するからです。
その機構の名前は自分の中にある「利」と、外から与えられる「理」です。
「利」と「理」は結局歯止めでしかない
物心ついてから、それなりに人生が続いていると、ムカツク人の一人や二人いましたよね?
叶うものならぶん殴ってやりたいと思ったこともあるはずです。
少なくとも僕は両手の指では数えられない程度にはそういう人がいました。結局ぶん殴ったのは今の所一人だけですが。
その時、僕の脳内ではこんな感じで行動を決めていたと思うんですよ。
「ぶん殴りたい(情)けど、ぶん殴っても得しない(利)から、ぶん殴らない(行動)」
さらに、親や教師に「喧嘩をしてはいけません、暴力を振るってはいけません」と言われることもあります。これが「理」です。
ただ実際には利も理も無視して、「ぶん殴りたい(情)から、ぶん殴る(行動)」
というパターンも発生してしまいます。
「利」は自分の中に元々あるもので、最終的には「情」の味方にあり、
「理」は自分の中に元々ないもので、最終的には切り捨てられるからです。
制御ではなく誘導を目指す
利と理が意見を一致させ、情を押さえ込もうとすると、一時的には成功してしまうことが多いです。2対1ですからね。
それはドライアイスを入れた風船の空気口を締めているようなもので、いつかどこかで解放してあげなきゃ破裂するだけなんです。
風船が破裂しても周囲に空気を撒き散らすだけですが、人間の抑圧された「情」が破裂した時、何が起こるかは誰にも予想できません。
それが撒き散らすモノは必ずしも悪い結果をもたらすわけではありませんが、前代未聞の大事件や言語道断な凶悪犯罪が起きることは往々にしてあります。
人間の情、その執念が引き起こす事象はそれほど侮りがたく、制御しにくいものなのです。
本来「利」と「理」は、「情」の妨げをするのではなく、その目指す場所に近づくための導線として機能しなければなりません。
自分にとっての「情」と「利」と「理」を見直す機会を持たないと、自分を見失いながら生きることになるのでくれぐれもお気を付けください。