生きてるだけで価値があるという幻想
相模原障害者施設殺傷事件から二ヶ月以上経ちましたが、もう話題に上ることはあまりなくなりましたね。色々な意味で衝撃的な事件でしたが、僕がこの事件で一番考えさせられたのは「人間の価値」です。
「価値の高い人間が生き残るべき」という価値観は、資本主義が進んでいる最近では、割と抵抗なく受け入れられる人が多いと思います。「働かざるもの食うべからず」って言いますし。
人や物の「価値」を決めるのは常に周囲であって、周囲に必要とされればされるほど、「価値が高い」と言えますし、その逆もまたしかり。
道端の石ころが突然「俺はダイヤだ!」って喋り出しても誰も真に受けませんよね?
だから、誰かにとって価値のない人間というのはいつだって存在しますし、「どんな人にも生きてるだけで価値がある」とすれば、それはそう考えてくれるその人の精神が尊いのであって、誰かの価値のなさが覆るわけじゃあない。
障害者のみならず、お年寄りや妊婦を大切にしようみたいな看板は「余裕」の表れであって、必要だからできたものではないんです。
優しくしてくれるからって価値を認めてくれたわけじゃない
障害者施設で作るクッキーや小物みたいなの見たことありますかね?
全国に色々な施設があるので一概には勿論言えませんが、あの手の商品が爆発的ヒットしてるイメージはちょっとないんですよ。
一応成功例として、「がんばカンパニー」という障害者福祉サービス事業所の年商に関する記事はありましたが、こういう例がそこかしこで出てきているとは到底思えないんですよね。
地元の百貨店や大型スーパーで障害者施設の人達がアピールしてるシーンも見たりしてますが、大盛況という感じではなかったですし。買っていく人はちらほらいましたし、それは一つの優しさでしょうが、魅力を感じて購入したかどうかは不明なわけです。
こういった取り組みは、その根本に「障害者にだってやれることはたくさんある」という発想があって、どうもそこから脱却できていないように感じるんですよ。
本当の意味で「その人たちに価値がある」と世間に認めさせたいなら、その人たちにしか出来ないことをやるしかないんです。
もっとも、それは「価値」に重きを置きすぎた結論だとは思いますが。
生きる価値がなくたって生きることはできる
「他人に自分の価値を認めてもらえない」のは嘆くことでもなんでもなく、当たり前に起こることです。誰からも価値を認められる人間なんてそうそういないんですから。
野口英世や川端康成は歴史的に見れば偉大な人ですし、現代にも多大な影響を与えてはいるでしょうが、当時世界に生きていた人全員が彼らに興味を持っていたわけではありません。
中には世間のことには興味がなくて、今日を無事に過ごせればってタイプもいたでしょ、同じ人間なんだし。
そういう人達からすればどんな偉人だって「価値のない人」になっちゃうわけです。偉人と呼ばれる人達ですらそんなレベルなんですから、僕らが「自分の価値」なんてものにこだわったって仕方ないでしょ。
それに「生きる価値」はなくても「生きる意味」がないわけじゃない。
誰かを「あっ!」と言わせることはできなくても、毎日を楽しく、あるいは必死に、あるいは穏やかに過ごすことに幸福を感じるのは結構なことじゃないですか。
仮に五体満足じゃなくても、そういう生活が送れる人が多ければ多いほど、その社会が「豊か」であることは疑いようがありません。
だから傍目には必要がなく、誰かに価値を認められることはなくとも、生きている「意味」というのは誰にでもあるものなんですよ。
だから障害者問題を考える上で本当に厄介なのは、
「人間を生きる価値のある存在に仕立て上げなきゃ気が済まない人達」
が存在することだと僕は考えます。
「私達がサポートするから一緒に社会に貢献しよう」という建前で、「生きる価値がある人間しか見たくないし、何の価値もない人間なんていらない」という本音をひた隠しにしていることに気付いていない。
「人間には生きる権利・生きる価値がある」なんてお題目は今やお呼びじゃなくて、
「生きていて欲しい」という勝手な願い、そういうエゴこそが人を救う原動力になるのです。