汝、隣人を愛しなさい。条件付で。

お前の勝手なイメージを押し付けるな!

「良かれと思って」。誰かがこの言葉を使う時、その誰かは、「自分にとって」良かれと思って行動していることにあまり気が付かない。

大抵の人は物心ついた頃になると、親を思って、兄弟を思って、友達を思って、ペットを思って、近所の人を思って、世界を思って、色々「良かれ」とされる行動を取って、時に失敗したとしても、その行為自体を否定されることは少なかった。

何故ならそこには愛があり、「誰かの笑顔の為に何かしてあげたい」という純粋な気持ちは否定されるべきではないからだ。

「自分の行動の見返りに誰かから笑顔を、感謝を、そして愛を受け取りたい」という意識が芽生えるまでは。

そこに愛はあるんか

早合点、余計なお世話、ありがた迷惑、勘違い野郎、自分に酔ってる、愛の鞭、押し付けがましい・・・表現は多種多様だが結局の所、「他人にとって良いこと」と「自分が良かれと思っていること」は全く別の物なのだ。

言葉にしてみれば単純なことだが、「自分が他人とは違う存在である」ことはわかっても、「他人が自分とは違う存在である」という感覚を実感として持つには、

「自分の愛は報われない」

という絶望をまず受け入れる必要がある。

誰もお前を愛さない

自分の善意や好意が通じない相手に対して、「そういうこともある」と諦めきれないのは、「いつかいいことがある」「いつかわかってくれる」という期待を拭いきれておらず、「愛が報われる」という前提があり、それが崩れることを何よりも恐れているからだ。

お前の愛は一生報われない、なんて言われたら誰だって反発したくなるはずで、だから人は一生懸命足掻く。そんなことはない、どこかの誰かが自分を見てくれる、自分を受け入れてくれる、とじたばたする姿は、

ひどくみっともなく見えるだろう。

時にはその期待や足掻きが、奇行や挫折、下手をすれば犯罪や暴力につながってしまう。

しかしその一方で、そのみっともなさ、情けなさ、滑稽さを受け入れることが出来れば、自分と他人を分けてくれる境界線にもなる。

人、それを「個性」と言う

「良かれと思って」行動する人達は、自分の個性を受け入れることが出来ず、個性に振り回されている。 個性は自己愛が生み出した欠点であり、短所であり、弱点であり、本来振り回すようなものではない。せいぜい看板として立てかけておけばいいのだ。

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