武士道と云うは死ぬ事と見付けたり
見出しの言葉は江戸時代、山本常朝という人が自分の著書に記したもので、割と有名です。
この言葉の解釈は色々なんですが、少なくとも「潔く死ぬこと」を奨励しているわけではないと思うんですよ。
「死中に活あり」と同じように、死の中に生を浮かび上がらせるニュアンスを僕は感じます。
今の世の中、誰にでも「自分の周りは嫌な事ばかりだ! 死んでやる!」って考えたりすることが一度くらいはあると思うんですけど、これってある意味無駄なことでもありますよね?
だって生まれた以上いつかは死ぬんだから。
んな切腹じみたマネしなくても、死ぬまでふらふら過ごしればいいじゃないですか。
一方、日本では毎年自殺者が2万人以上います。言い換えれば「死ぬより生きることの方が恐ろしい」って人が2万人、しかも未遂の人まで含めたらもっといるということでもあります。
日本全体の人口から考えれば1割どころか1分にも満たない数字なんでしょうけど、万単位でわざわざ自分に止めをさす人がいる、って状況はちょっとヤバいと思うんですよ。
生きるのがちょっとしんどいと思ったら
20歳半ばくらいまで僕は「あー、安楽死施設があったらなあ」とものすんごいネガティブなことを考えていました。今もあるに越したことはないと思ってますが。
その頃は今より怠け者だった上に、自分に価値がないことを受け入れられなかったので、生きることそのものがとっても辛く感じられたんですよね。
でも実際に死のうとは欠片も思っていなかったのも事実なんです。
何故なら、僕は超超超超「自分大好き人間」だからです。好きな言葉は「天上天下唯我独尊」ってエントリーシートに書いちゃうくらいの。
まあそこまでいくとやりすぎ感はありますけど、「自分のことが好きな自分」は誰の心の中にもいると思うんですよ。それに気付くきっかけさえあれば、ちょっとやそっとのことでは死のうとは考えなくなります。
そのきっかけが見つからないままヤケになってしまう可能性も大いにあるのですが。
現代の駆け込み寺はどこにある
僕は「自分を憂いなく終わらせられる場」が用意できていれば、結果的に死に急ぐ人を減らせるんじゃないかなあと思うんですよ。
なんだかんだ言っても、いざ死ぬ今日死ぬとなれば大抵の人はビビって止めます、絶対。
現実でも創作でも死ぬことより生きることを恐れているのは武士や軍人ぐらいですからね。
江戸時代と違って、殿様から直々に切腹を仰せつかったわけじゃないんですから、怖くなったら止めてもいいんです。んで、そうやって「死のうと思ったけどやっぱ止めた」という人なら、「これからどう生きるか」を考える気になるでしょう。
そこで初めてカウンセリングや生活保護なんかが効果を発揮するわけです。
勿論、「自殺するような軟弱者は知らん、勝手にくたばれ」っていうストロングな考え方も正論の一つではあると思います。僕の言った安楽死施設とやらを国や社会が用意すべきであるとも言いません。
ただ、行き場をなくした人達の「介錯役」を担うのは社会の負の側面を持つ組織ばかりです。
現代ではブラック企業や犯罪組織がそういう人達を使い潰すことで、その役目を果たしてしまっていると言えるでしょう。それではあまりに救いがない。
「死に方くらいは選びたい」という意識に寄り添い、その声を掬って救うシステム。
生きにくい時代が続けば、やがてそういうものが必要になってくるでしょう。