読むのだるいけど、「ダルちゃん」読もう。
僕の印象では、ダルちゃんは「どこにでもいる普通じゃない人」の代弁者でした。 普通じゃないから、「社会」というでっかい器、その器の中でそれぞれに区切られた「人間関係」という名のエリアで日々攪拌されている液だまりに自分を溶かし切れないんです。
そうだ、ヒモになろう。
僕の印象では、ダルちゃんは「どこにでもいる普通じゃない人」の代弁者でした。 普通じゃないから、「社会」というでっかい器、その器の中でそれぞれに区切られた「人間関係」という名のエリアで日々攪拌されている液だまりに自分を溶かし切れないんです。
人間は様々な理屈を用いて自分の正当性を主張します。「理論武装」と呼ばれるやつですね。 ただ、そういう理論武装を下敷きにした意思疎通はある意味「かっこ悪い」んですよ。 「正しさ」には不思議な魅力があります。 正しさを武器に何かを為そうとする人は姿形のない誰かに自分を委ねているのと同じです。 「自分の理」が見つかるのです。
ただ「いてもいなくても大して変わらない」と「いない方がいい」は全く異なっていて、後者の考え方はあり得ないと思うんですよね。 「僕が生き続けること」は「僕が失わせ続けるもの」に見合うほど意味のある行為なのか。 本来僕の生命は「世界」と表現され得るもの全てに匹敵するのですよ。 「全く問題ありません! 反省しません!」
「他人に干渉をするならそのこと自体がリスクである」 「リスクを背負えないなら枠をはみ出してはいけない」 でも、そういう生き方を突き詰めていくと、何だって一人で決めなくてはいけませんから、「誰かと一緒に生きること」は絶対にできなくなってしまうんです。ずーっと。 清く、正しく、笑顔で、間違えましょう!
相模原障害者施設殺傷事件から二ヶ月以上経ちましたが、もう話題に上ることはあまりなくなりましたね。色々な意味で衝撃的な事件でしたが、僕がこの事件で一番考えさせられたのは「人間の価値」です。 「価値の高い人間が生き残るべき」という価値観は、資本主義が進んでいる最近では、割と抵抗なく受け入れられる人が多いと思います。
大抵の人には、何年経っても忘れられない辛い出来事というものがあるかと思います。 人に愚痴るどころか、それを思い出すだけで胃がむかむかするレベルの人もいるでしょう。 僕は一つの職場に長く勤めたことがあまりないので、職場の同僚と飲み会をしたりすることは数えるくらいしかありませんでしたが、
ブラック企業という言葉が世に出てから随分経った気がしますが、それを取り巻く状況について、あまりよくなっている印象はありません。 過労死に関するニュースもいまだにちょくちょく聞きますしね。 んで、どうしてあってはならないそういうことが起きてしまうのか考えてみた所、 「人を使い捨てないと立ち行かないからそうしている」
僕も似たタイプなんですが、僕の友人Aには何かとマイナーなものを好むクセがあります。 これ自体は別段珍しいことではないし、生活に大きな支障があるわけではありません。 ただ、そういう性格の裏側には選ばれなかった悲哀と、選ばれたものへの敵意がどことなく存在し、ときおりそれが見え隠れします。
今日はパラリンピックの開幕日なんですが、これに出場する選手って皆さんの目にどう映りますか? ハンディに負けずに努力してきた人? 不撓不屈の精神の持ち主? おおむねそんな感じの捉え方をする人が多いと思います。僕もそうですし。