不謹慎とか自粛とか叫ぶ人は人間ではない。

みんな一体なにと戦っているんだ

鳥取で大きな地震がありましたが、こういう災害や大きな事故があると、

周囲に不謹慎な言動や行動、つまり「自粛」を求める人が色んな所に現れるんですよね。

確かに不幸のどん底にいる人の前で幸せ絶頂の笑顔でもしてたら嫌味に取られても不思議ではないんですが、じゃあその笑顔を奪って誰が幸せになるんでしょう?

他人の不幸を笑うのは恥ずべき行為ですが、日々平穏な生活を送り、それを楽しむこと自体は忌むべきことでも避けるべきことでもないはずです。

それにも関わらず、他人の幸せを認められない人は後を絶たないのです。

早く人間になりたい

これは人間が持つ優れた能力と言っても過言ではないのですが、

人間は自分と他人を「どうでもいいものとして割り切れる」能力があると思うんですよ。

動物みたいに誰彼構わず縄張りに入ってきた者に牙を剥かず、

それは自分には関係のないことだと判断できるならスルーしてしまえるのが人間です。

闘争が人間の本能だと言うのなら、この「スルー力」は理性の象徴とも言えます。

他人からの暴力(言葉の暴力とかも含みます)に脅かされる領域には、

スルー力を持たない動物のルールを持ったまま生きている人間がおり、

それはつまり「人間が育ってない」ということでもあるのでしょう。

「0」ではなく「100」と「-100」がある

痛ましい事故、凶悪な事件、大きな災害、耐え難い労働環境、親愛なる他者からの裏切り。

そんな理不尽に晒されている人がいる時こそ、

そうでない僕らは明るく、楽しく、喜びに満ちた生活をしなければ駄目なんです。

今日を無事に過ごせたのだからそこは笑うところでしょう? 暗い顔をして何になると?

もちろん、数々の理不尽から誰かを救おうと行動する人には敬意を払うべきです。

しかし「行動しない自分」を卑下して暗い顔でもしていようものなら、

それは今嘆き悲しみ、もがき苦しんでいる人への冒涜です。それでは釣り合いが取れません。

関係を持たない他人に対する憐れみを否定するつもりはありません。

当然ですが、他人の不幸を喜べというわけでもありません。

生きていく過程で自分に、あるいは他人に降りかかる色々な出来事を、

「ただ苦しかっただけ」「ただ悲しかっただけ」にしたくないんですよ。

それではあまりに救いがない。生きる気力も湧かないというもの。

「いつかどこかで、なにかに繋がっている」という感覚が明日を生きる力になるのです。

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