読むのだるいけど、「ダルちゃん」読もう。

普通の人

「ダルちゃん」というwebコミックが最終回を迎えたので改めて読んでみたんですが、色々考える機会を貰えるいい漫画でした。

全52話ですが、ショートストーリーという触れ込みの通り1話1話は短いので時間的にはサクっと読めます。でも読み応えはあると錯覚するほど中身の詰まったシーンが多く、読み終わった後はちょっとぼーっとするかもしれません。

リンク先を見ればわかりますが、この「ダルちゃん」は資生堂の公式ホームページに存在しています。見方を変えればこれは資生堂のCMの一環とも見られるわけですが、そんなことは感じない、あるいはそれだけを感じさせるようなものではないので、「ダルい」って口にする機会が多い人は是非見て欲しいと思います。

(以下は読んだ人向けの部分が多々あるので「ダルちゃん」読了後がいいかもしれません。)

無味無臭

僕の印象では、ダルちゃんは「どこにでもいる普通じゃない人」の代弁者でした。

作中でダルちゃんは「普通って何?」という問いにぶち当たりますが、現代社会でこの問いに対して真剣に考える機会はなんだかんだ言ってそうないと思います。

何故って考えても仕方ないことだからです。「そんな暇があったら稼げ! 学べ! 動け!」って声が飛んできそうなくらいに。

でもこういう考えても仕方ないことを考えてしまうのも「あるある」なんですよね。特に「普通じゃない」と言われた経験がある人にとっては。

「普通」の定義は人によって様々ですが、僕は「溶け込めない」ことだと思ってます。

「社会」というでっかい器、その器の中でそれぞれに区切られた「人間関係」という名のエリアで日々攪拌されている液だまりに自分を溶かし切れないんです。

ダルちゃんは見た目こそ溶けてるのに、実際は溶け込めてない立場の人でもあるんですよね。そこがまた面白い所なんですが。

どうして溶かし切れないかというと、味が濃すぎるか、あるいは薄すぎるから。

浸透圧とか塩分濃度とか、そういうのと同じ仕組みで、器の中身をちょうどいい塩梅に仕上げるには、上にも下にも限度があります。

で、そこに馴染まない味はそもそも器に入れてもらえないし、なまじ無理に飛び込んで溶け込もうとするから器の中のバランスが悪くなってしまうわけです(濃すぎると取り除かれ、薄すぎると濃い味に取り込まれて消えてしまう)。

その馴染まなさこそが「普通じゃない人」の証明であり、そういう人は実はどこにでもいるんです。ただ溶かされないよう、味を変えないようオブラートで包んでいるだけで。

今日もいい天気

物語の中でダルちゃんは「理解者」と「創作」という二つの拠り所を見つけます。ここがダルちゃんという物語の一番難しい・・・僕の中では賛否が分かれる部分でした。

何故なら、この二つは「どこにでもいる普通じゃない人」が拠り所とするには不安定だからです。

「どこにでもいる普通の人」は理解者を得られる機会が多くあります。相手と自分が近しい関係にあると感じやすいし、感じてもらいやすいからです。

「どこにでもいない普通じゃない人」にとって、創作というのは誰もいない荒野を切り開くための武器であり、歩くための杖であり、動くための食料でもあります。創作というのはただ継続するのはとても難しく、実際に他者から評価を受けて、自分の生きる糧になるまでいくつも段階があります。ですがそういう過程を歩むことを忌避しない、あるいは忌避する暇もないくらい切羽詰っているのが、「どこにでもいない普通じゃない人」たる所以なわけです。

対して、「どこにでもいる普通じゃない人」は理解者は得にくく、さりとて創作にだけのめり込むほど常人離れしているとも言えず、前途多難な未来をどうしても想像しちゃうんですね。

もっともヒロセさんの言う通り、こういうカテゴリ分けには実は意味なんてなく、上手く行く時は行くし、行かない時は行かないわけで、最終的には自分の選んだ道でやっていくしかないんですが。

何にせよ、ダルちゃんの物語はここで一旦終わりましたが、物語を通して何かを得られた人は自分の物語につなげて欲しいし、得るものがなかった人は自分の得たかったものが何なのか考えるきっかけになればいいなと思います。

創る人にとっては「意味があった」「影響があった」ことが励みになりますから。

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