「自分の大切な人が殺されるなんてよくあること」だから我慢しようよ。

「理不尽な人災」

まずタイトルを見て不快に思った方、大変失礼しました。

勿論、自分の家族やパートナーが理不尽な形で奪われるのは、決して「よくあること」ではないし、許していいことでもありません。

しかし、先日起きた川崎市の事件のみならず、 東海道新幹線、相模原やまゆり園、マツダ本社、秋葉原、大阪池田小、と誰の記憶にも残るであろう無差別殺傷事件というものが2000年以降だけでも複数発生しています。

さらに言えば、無差別殺傷ではなく殺人や強盗、放火や誘拐などで失われてしまった人命を鑑みれば、残念ながら「理不尽に命を奪われる」のは決して他人事ではないんです。

こういう事件が起きると、

「だからこういう悲惨な事件が起こる前に、弱者保護を!」

とか、

「貧困がこういう凶悪な事件を招くんだから、経済政策を!」

とか、

ある意味最もなテーマというか、一人一人が考えなければいけない議論が巻き起こるものですし、それも大事だとは思います。

ただこういう「理不尽な人災」が起こった時、僕らはむしろ身の回りにある小さな理不尽に目を向けるべきなのではないでしょうか。

許されないのは殺人だけか?

例えば上司や取引先、先輩や同級生、時には赤の他人や全く面識のない人から理不尽な仕打ちを受けた経験が誰しもあるのではないでしょうか。

そして、そういう時に「人生そんなもんだよ」とか「誰だってそういう経験あるよ」とか、そういうアドバイスや人生訓を大人に教わった経験がある人もいるのではないでしょうか。

少なくとも僕はそうでした。そしてそういうことを言われる度に、

「大人というものは理不尽を受け入れて日々を生きていくものなのかな?」

「本当にそれが『いい大人』なのかな?」

という疑問を持つようになりました。

全てを求めて、やっと半分が与えられる

僕は左眼が義眼です。といっても、学生の頃はそのことにコンプレックスはなかった・・・というより表面化しなかったというべきでしょうか。

しかし就職や転職の段階になれば、嫌でも気になってくるのです。左右非対称の顔や履歴書や職務経歴書に必ず「左眼義眼」の4文字が入ることが。

もっとも左眼が見えないことを逃げ道にしても状況は改善しませんし、自分の身につけたスキルや能力、僕自身が持つ個性を磨けば左眼が見えないことなんて小さなことです。

でもそれを他人に言われれば腹が立ちます。「左眼のない生活を理不尽に押し付けられた経験もないくせにとやかく言うな」という苛立ちは絶対に消えません。

僕からすれば「あらゆる理不尽を受け入れて日々を生きていく」というのは人間としてある意味完成した状態なんですよね。どこのお釈迦様だよ、というくらいには。

だから、命を奪われるなんて「大きな理不尽」じゃなくても、

同級生から馬鹿にされるとか家族から嫌味を言われるとか、

客から暴言を投げかけられるとか同僚から残業を押し付けられるとか、

自分の身に起こった小さな理不尽を全て受けとめろ、

なんて言われても無理なんですよね。

正しき怒りを胸に

今回の川崎事件の犯人を擁護する気なんてないですし、これをダシに社会問題がどーのこーのと語るのは行政や福祉に関わっている人の役目です。いや個人個人が問題意識を持つのも勿論大事なんですけど。

ただ、起こってしまったことの分析って、地震や台風のようにある意味定期的かつ避けられない天災の時には必要ですが、 いつどこで誰が起こすかもわからない人災は傾向と対策で何とかできるものではないんですよね。

目の前にいない人の心を操るようなもので、そんなのどんな心理学者でも詐欺師でも無理・・・のはず。

こういう理不尽な事件を歯止めをかけるのはやっぱり人というか、

「人の可能性」

だと僕は思います。

人の可能性なんて言うと大げさかもですが、要は、

「今日はひどい目にあった。でも昨日は結構いい事もあった。なら明日はいいことがあるかもしれない」

みたいな根拠のない思い込みであっても、それを信じて行動できる能力が人にはあるんじゃないかなぁってことです。

「この一杯のために生きている」ってフレーズ、昔はあまり好きじゃなかったんですけど、この言葉って金曜というか週末というか、「未来」がないと成立しないんですよね。

「明日の一杯のために今日を生きる」って意気込みでもありますから。

何もかもどうでもいい、明日なんて来なくていい、って考える「無敵の人」が増えれば増えるほど救いようのない事件がこれからも起きるでしょう。

そういう人を止めるために社会が支援すべきってことではなくて、

「実際に理不尽な目にあったとしても、世の中は理不尽なことばかりじゃない」

「いいやつばかりじゃないけど、わるいやつばかりでもない」

と、そんなふうに絶望感を和らげる材料があれば、「今日はやめておくか」と思い留まることができる。「完璧じゃないけど、ぶち壊したいと思うほどじゃない程度には希望がある社会」を作れる可能性はまたあると思うんです、人には。

そのためには、 仮に理想には程遠くても、「大きな理不尽」を受けない社会を目指して、一人一人が「小さな理不尽」をなるべく生まないで生活していくのが一番の近道だと僕は思います。

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