一対一にこだわらない。

敷居を跨げば…七人どころではなかった

十人十色ってことわざがありますよね?

あれは自分と他人が違う存在である、ってことを端的に示す四文字熟語だと思うんですが、

僕は自分の中だけでも様々な人格、言い換えれば「色」がある気がするんですよ。

悲観的な自分、楽観的な自分、感情的な自分、理性的な自分。

どれ一つとして嘘の自分などではなく、かといって「全部合わせて一つの自分」というには、気分の揺れ幅が大きすぎる。

いいことがあってテンションの高い日もあれば、ミスが多くて妙にネガティブな考えが頭をよぎる日もあって、「安定している自分」や「統一された自我」の気配が全くないのです。

二十本の手で相手とどれだけ握手できるか

「自分はこういう人間だ」と決めて、「一つ」にするなんてそもそも無理だと思うんですよ。

自分の中には相反する性質がいくつもあり、周囲の環境によって表に出てくるものは異なってしまいますから、「常に理想的な唯一人の自分」なんてどこにもいないんです。

上司と上手くやれない時もあれば、後輩と上手くやれる時もあります。

配偶者と上手くやれる時もあれば、両親と上手くやれない時もあります。

大事なことは「自分の中の十人」と「他人の中の十人」の「合わない」部分を意識すること。

少し頑張って、その感覚を言語化しておくと、他人との無駄な交流を避けられるでしょう。

僕の例で言えば、「気合」や「根性」という単語を頻繁に使う人、あと他人に対して「使えない」と実際に言っちゃう人とは距離を置くことにしていますね。

こういう類の人は「他人が変化し、生きている」ことを忘れているようなもんですから。

自分の可能性は広がらないし狭まらない

「合わない人」と長く付き合うことで、「合う」部分が見つかる可能性は否定できませんが、第一印象は思ったほど自分を裏切りません。

やっぱりこの人とは合わなかった、というケースほど自分を消耗させることはないのです。

仮に自分の最大の理解者になれる資質がある他人を見逃してしまったとしても、

人生においてそういう出会いの機会はいくらでもあります。

10年20年という長いスパンで見れば、大抵の人は自分を中心にした一対多の関係を築いているはずですし、これからもそうしていくわけですからね。

目の前の誰かとの関係が台無しになっても気にするな、という話ではありません。一期一会のことわざにあるように、人との縁は得がたいものです。

ただ、その誰かとの関係を保てなかったのはまさに「縁がなかった」んです。その時点では。

どうにも動かせない状況があり、お互いに混ざり合える色を持ってなかっただけで、誰が悪いか、何が悪いか犯人探しをした所で救われる人はどこにもいません。

一対一の関係が一つ失われたとしても、生きている限り誰かと、あるいは何かと触れ合える機会はあるでしょう。心の奥でその機会を楽しみにしていればそれでいいのです。

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