面倒な事からは逃げない。嫌な事からは逃げる。これで大体上手く行く。

足らぬ足らぬは自覚が足らぬ

僕は基本的に意識が低いので、「逃げる」のは賛成派です。何かにつけて。

「逃げちゃダメだ」は誰しも一度は戒めとして心に持つ、あるいは持たされる心得だと思いますが、空からミサイル・・・は大げさだとしても、普段着で海辺を歩いていた時に背の高さくらいの津波が来た、なんて時なら大抵の人は逃げるでしょう?

もちろんハリウッド映画に出てくるような大津波でなければ、立ち向かう人もいるかもしれませんし、運が良ければ生き残る目もあるでしょう。

でもどんなに努力しても、運が悪ければ取り返しの付かないことになるのは間違いありません。津波ですから。どんな危険が潜んでいるかは、津波や海難事故の専門家でもなければ・・・というよりそうであっても予測しづらいものだと個人的には思います。

この「背の高さくらいの津波」ってのは僕が適当に考えた比喩表現ですが、「社会の荒波」って表現の通り、社会という場にいれば、時として自分の力ではどうにも出来ない問題が波のように襲い掛かってきます。

そういう時、「今目の前にあることに立ち向かう」のが常に正解だと思わないんで欲しいんです。特に自分が未熟だって感じている人には。

だって津波に大した知識も経験も、装備も対策もなしに立ち向かう人がいたら・・・止めますよね? 見ず知らずの他人でも、声の届く距離にいれば「あんた、そこにいたら危ないよ!」くらいは言いたくなりません?

井の中の居心地は

確かに、自分を取り巻く何もかもから目を逸らして、ひたすら逃げ続けていればいずれ追い詰められていきます。底辺と呼ばれる領域に自分を落とし込んでしまうこともあるでしょう。井の中で大海に憧れては落胆する蛙のように、自分を卑下する毎日を送るようになってしまうかもしれません。

でも、野暮な突っ込みですが、大海で蛙は生きられないんですよ。人間は蛙とはもちろん生態が異なりますが、自分の適応できない領域に首やら足やらを突っ込こもうとしている、という意味では状況にそう変わりはありません。

現実ではどんなに根性がある「ド根性ガエル」でも、海に放り込まれたらまず生きてはいけません。蛙だってそんなことされると分かっていれば嫌がるはずです。

できるわけがないッ!

一番大切なのは、「自分だけで目の前の問題に対して対処が可能か」を考えることです。

鍛えればできる、学べばできる、時間をかければできる。

そういった「自分自身が変化することで問題が解決する」ならそれは「面倒な事」です。ここからは逃げない方がいいです。

でも「他人が変化しないと解決しない問題」「嫌な事」です。これはさっさと逃げないとダメです。

自分が変わることで周囲が変化するというのは錯覚で、他人が変わるとしたら当人が変わりたいと思っている時だけです。

変わりたいという意識がない他人を変化させることは、拷問でもしない限りまずできません。ダルマを転がしたら、元の状態に戻ってしまうように。

裏を返せば、変わりたくもないのに変えられてしまった人は拷問を受けたに等しいわけです。ダルマを壊したら、二度と起き上がれないように。

「変わろうとしていない他人が変わることを期待する」のは、「変わりたくない自分に変わることを要求される」のと同じなんですよ。だから大体こじれてしまう。

自分が変えられるのは自分に手の届く範囲だけです。くれぐれも引き際には注意しましょう。

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