「自分はわかっている」ということをわかっていない
学校や職場、あるいは家族や親戚には様々なタイプの人・・・例えば気さくな人、気難しい人、話しやすい人、運動が得意な人、保守的な人、計算が早い人、仲介が得意な人。
そういう一筋縄にくくれないたくさん人達がいます。その中でしばしば付き合いにくいのが「教え下手の能ある鷹」タイプです。
この手の人達は自分の知識や技術を活かして、他人の質問に答えたり誰かの手助けをするのが好きだったりします。
ですが、往々にしてこういう人達は他人に何かを教えるのは得意ではありません。
何故かというと、彼らは知識や技術を得るために経験を積むことに集中するあまり、それを人に伝える技術を身につける間もなく時間を重ねてしまったからです。
自然には身に付かない「伝達」という能力
これは良いとか悪いとかそういう問題ではありませんし、本人に悪意があるわけでもありません。周囲にいた家族や同僚、本人の受けた教育や労働環境、言うなれば、そうなる流れがあったからです。
そうした流れが積み重なって人生が進んでいき、それに伴って自我が確立し、最後には自分に能力もそれに見合った自信も身に付いていきますが、一方で自身の血肉となったものが多ければ多いほど、それを誰かに伝えることは難しくなっていきます。
仮に本人がそう感じていなくても、誰から見てもささいなことであろうと、人が自分の経験を語ろうとする時、当時の感情や感覚、思考や価値観、自分を取り巻いていた社会状況や事件等々、脳内を駆け巡る膨大な情報量に圧倒され、言うべき言葉、語るべき事実を見失いがちだからです。
語れないのは黙っているのと同じこと
辛い経験や悲しい経験をなんでもないことのように語るのはとても難しいことですが、自分の学んだ知識や経験を人に上手く伝えられないのは経験不足によるものがほとんどです。
若いうちはまだしも年を重ねれば重ねるほど、伝達技術が未熟なままでいるのはとても危険なことです。いつしかその人の周りには本人の意を汲んでくれる人しか集まらなくなり、そういう人すらいなくなってしまえば本人は孤立するしかないのですから。
孤立してなお生き抜ける人ならば話は別ですが、たまには自分の人生を整理して子供に読み聞かせることができるようにしておいた方がいいでしょう。