家族だから大事なんじゃない
僕は続柄で言えば三男に当たるのですが、長男とは折り合いが極めて悪く今も冷戦状態です。
長男の若い頃の人柄を簡潔に述べるならば、「暇さえあれば尾崎豊さんの歌を聞き、ケンカ・交通事故・喫煙等のお約束を守る人」と言えば、どんな性格かは想像がつくと思います。
そんな人間の家庭におけるフラストレーションを引き受けていたのが、15歳にも満たない僕でした(といっても、大怪我するようなことはありませんでしたが)。
毎日のように小突かれ怒鳴られパシらされやつあたりされ、僕の自尊心やら安心感やら反骨心やらが脅かされる生活が何年も続きました。
時が経ち、成人する頃には、僕の心の中で長男には死刑判決がとっくに出ていました。
何せ今に至るまで謝罪も感謝も悔恨もなく、極め付けには「覚えていない」とのたまう人ですからね。もはや和解はないだろう、と確信しています。
そんな状態に苦慮していたのがやはり母でした。
母は「家族なんだから仲良くしなさい」と繰り返すタイプでしたが、僕は
「自分を散々苦しめた人間を家族だと思えるわけないだろ、頭おかしいんじゃないのか」
というような意見をオブラートに包みながら伝えましたが、母は一向に納得しません。
自分の息子達がお互いいがみ合うように育ってしまったことを許容できなかったようにも感じられますし、自分がいなくなった後のことを純粋に心配していたとも取れますが、そのあたりは本人にもよく分からないのでしょう。
ともあれ、そういう価値観の違いの積み重ねがあったからこそ声を大にして言えるのですが、
「大事に思える人達の中に家族がいる場合がある」
のであって、僕は外から見れば文句のつけようのない「家庭」に育っておきながら、血の繋がりなど何の当てにもならないという揺ぎ無い実感を得て、今も生き続けています。
家族は在るものではなく、成るものである
誰かが意思を持った一人の人間として、同じ意思を持った誰かと家族になろうと
決めた時に、初めて家族になれる「可能性」が生まれるのです。
法律上家族であっても、それに関わる一人一人が家族であろうと意識しなければ、
そこに「家庭」は生まれません。
祖父も祖母も父親も母親も兄弟も姉妹も息子も娘も、
「家族である前に一人の人間である」
ということを意識していなければ、その関係は容易く崩壊します。
家族の絆は決して強いものではありません。もしそれを強いと感じるのなら、
それは誰かが、あるいは全員が強くあれと願い、そのための行動を惜しんでいないからです。
君、家族神話を根付かせることなかれ
20歳の自分からすれば今の僕自身がその立場ではありますが、
年長者は時として「善意の洗脳」を年少者に施します。
家族とはこういうものだ、友人とはこういうものだ、幸せとはこういうものだ。
そんな風に誰かの自由な心を、悪意を持たないまま塗りつぶそうとします。
自分の心の軋みを、特に心臓あたりの痛みや心拍の乱れを意識しましょう。
いつか自分の心を託せる何かを見つけるまでは、自分の心を守れるのは自分だけですから。