嫌いなものを語れるようになる。

この記事で言いたいこと

1.嫌いなもの(こと・ひと)が多い事はどうでも良いんだ。重要なことじゃない。

2.「何故嫌いなのかを説明できる人」は意外と信用してもらえる。

3.「生理的に無理」を使っていいのは使われる覚悟のある奴だけだ。

毒を喰らう

もし、あなたの好きなもの(こと・ひと)について語って欲しいって言われたとしたら、何分くらい、あるいは何時間くらい語れますか?

合いの手の有無とか話の弾み具合にもよるんでしょうが、まあ大体の人は30分~1時間くらいなら余裕で語れると思いますし、人によっては丸一日かけても終わらないかもしれません。

どんな人でも好きなものについては、調べたり、追っかけたり、考えたり、食べたり、見つめたり、しがみついたり・・・ともかくその人が取れる色んなアプローチやアクションをすると思うんですよ。だから、好きなものについてはめっちゃ詳しいし、めっちゃ熱く語れる。

では逆に、あなたの嫌いなもの(こと・ひと)について語って欲しいって言われたらどうですかね?

これは人によって結構差がでかいと思うんですよ。人間関係とか仕事の愚痴とかいくらでも出る人もいれば、あんまりそういうこと言わない人もいる。嫌いなものについて考えること自体が嫌いな人もいるし、克服のためにあえて近づく人だって中にはいるわけです。

いずれにしても、人は好きなものを身の回りにおいて、嫌いなものを遠ざける人が多数派だと思います。でも時に嫌いなものが自分の価値観とか性質、例えるなら「芯」を補強してくれることもあるんですね。

柔軟な頑固者

僕は接客業がすごい苦手だった(今も得意ってわけではないです)んですが、それでも複数の職場経験を合わせれば3年くらいは接客業に従事してた期間があります。

その経験から踏まえると、

「人間疲れもするしミスもするんだから、他人にも自分にも常に完璧を求めない」

という意識がめちゃくちゃ強いみたいなんですよね、僕は。

喫茶店でもスーパーでもドラッグストアでも家電量販店でも、人の命がかかってる状況でもない限りは、かなりマイペースな振る舞いをします。消費者の立場でも、労働者の立場でも。

僕自身は一見真面目な性格に見られることも多いんですが、根がこれだから今の接客業(に限らないかもしれませんが)に求められる人物像としてはやや問題ありなんですね。何故なら「実際には完璧でなくとも、完璧であると思われる振る舞いを求められる」からです。

これってつまり、

「人間疲れもするしミスもするんだから、他人にも自分にも常に完璧を求めない」

なんて常日頃から考えてる人間が、

「実際には完璧でなくとも、完璧であると思われる振る舞いを求められる」

立場で動かなければいけないわけで。そんなの上手く行くわけないじゃん!

でもこの噛み合わなさに気付いたのはもう3年目も終わろうかというぐらい・・・ともかくちょっとやそっとでは気付けなかったんですよw

で、そういったことが腑に落ちた後は、職場選びもある程度上手く行くようになりました。明らかに自分では務まらないポジション、あるいは状況に置かれた時にどうすべきか割とスムーズに決められるんです。

選択肢が狭まった分、行動は早くなりますからね。

好き嫌いの多い人間になる

嫌いな作業をやる。嫌いな立場につく。嫌いな人と一緒に働く。

そんな状況が発生していること自体非効率なんですよ。テキオー灯を浴びたわけじゃあるまいし、人間の適応力には限界があります。

頭の中で悩みがぐるぐる渦巻いている時は、自分の目の前にあるそれが何故嫌いなのかをじっくり考えてみて欲しいんですね。

「何となく嫌」は通じなくても、自分なりに言葉を選んで重ねてみましょう。

「いかにそれが嫌いであるか」を語れると、大抵の人は理解を示してくれます。

何故なら文字通り言葉の重みが違うからです。あなたが好きなものに対して語れば語るほど、「いかにそれが好きであるか」を相手がわかってくれるようにね。

もちろん、何かにつけて理由を付けられないと駄目ってわけじゃありません。「何となく嫌」っていう感覚も大事ですから。

ただ視界がぼやけたままスイスイ動けないように、自分の中にある嫌な感覚を言葉にできないままだと、結局現実の動きも鈍くなりがちです。

言葉にできること自体が自信や勇気につながりやすいので、時折自分の心の中を形にしておいて損はないと思います。

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