人を人として認識できる範囲が狭い
映画「聲の形」に関して色々な意見が交わされているようですが、創作物に関する評価は人によって違っていいと思います。
が、「加害者」と「被害者」の関係性についてはやはり気を付けておきたいことがあります。
まず、加害者が自分のやったことを自省することは基本的にありません。
何故なら、加害者は被害者をそもそも同列の存在、つまり人として見なしていないからです。
相手がホモサピエンスで自分と同じ生態系を持つ存在であることは理解できるとしても、
同時に被害者と自分は決定的に違う存在だとも認識しています。
自分が同じことをされたらどう感じるかという問いは意味を成さず、
だからこそ彼らは他人を加害することに踏み切れるのです。
被害者が求めるものは謝罪ではない
悪いことをしたら謝る、というのはよくある話ですし、謝罪が一切受け入れられない社会というのもそれはそれで空恐ろしいとは思います。
しかし、謝罪に意味があるのは「謝って済む問題」の場合だけです。
もし被害者の心に、一生とは言わないまでも、長く残る傷跡が出来るような出来事が起こった場合、被害者に必要なのは謝罪より「納得感」です。
刑事事件における賠償金や懲役刑がいい例でしょう。謝罪で済む問題ではないからこそ、それ以外の方法で被害者の納得感を生まれさせようとしているのだと言えます。
もっとも、どんな被害者にも当てはめられる方法があるわけではありません。
周囲から与えられた納得感というものは、自分の状況次第でブレるからです。
もし僕が残った右眼を失うようなことになったとしたら、犯人が終身刑になろうが、何億円積まれようが、一切気が晴れることはないでしょう。
読書も料理も、こうして記事を書くことも自由に出来なくなってしまうのですから。
憎んで憎んで憎みきれ
被害者が加害者に対して、徹底的に罪を償わせようとするのも一つの到達点ですが、他人の意識を変えて、あまつさえ被害者が納得できるような行動を求めるというのは、ものすごいエネルギーを使います。
ましてや、それで自分の中に納得感を呼び込めるかどうかは自分の状況が物を言う部分もあるのでオススメはできません。
勿論、被害者が加害者を許す義務などありませんし、そもそも純粋に他人を許すというのは非常に尊く、ある意味聖人にしかできない行為です。
他人に苦しめられたことを気にしなくなった人の中には、「長く生きているうちに、自分の中に他人の過ちを許せる理由が生まれた人」も大勢いるはずです。
言い換えれば、その人たちは「ただ許した」わけではない、ということです。
だから、ある人は誰かを許せる日が来るかもしれませんし、またある人は誰かを許せないまま一生を終えることもあるかもしれません。
いずれにせよ、誰かを許せない自分を責める必要も、またそれを責められる理由も全くないのです。
僕らは誰かを許すために生きているわけではないのですから。