言えば言うほど空々しくなる不思議
人間は様々な理屈を用いて自分の正当性を主張します。「理論武装」と呼ばれるやつですね。
下世話な例えかもしれませんが、男女問わず浮気の現場では「向こうから誘ってきた」「最近相手が冷たかった」「新しい刺激が欲しかった」というような文言が飛び交います。
僕は浮気どころか本命すらいたことない野郎なので、こんな状況には縁がありませんが、もし浮気した側の立場であれば最適解は「浮気してゴメンナサイ」の一言だと思うんですよね。
浮気した側にも長々と浮気に至った理由を説明しようとしても効果はない、というか状況が悪化することは目に見えているわけですから。
まあ男女関係に一から十まで納得できる結論が存在しないのも事実でしょう。感情同士のぶつかり合いでもありますからね。
浮気に限らず、事ある毎に長々と自分の考えを言い募り、自分の正しさを証明しようとする人は一定数存在するのでしょう。お互い不毛な会話を続けるより、物事の筋道を立てて、理論的に問題を決着に導こうとするのはスマートなやり方のようにも思えます。
ただ、そういう理論武装を下敷きにした意思疎通は目的によってはすごく格好悪く見えるんですよ。
だって「そこを攻撃されたら負ける」・「そのまま衝突しても勝てない」から人は武装するわけですよね?
なら、理論武装している人間は、その裏に必ず欲求や感情と言った、本人にとっての急所を守っていることに他ならないわけです。
常に自分の欲求や感情を表に出して、人と接していたら他人の価値観との衝突が多くなり、ギスギスした毎日を送ることになりかねませんから、理論武装する必要性が全くないとは言えません。悪意を持って接してくる人間に対処するための大事な手段ですからね。
しかし「何のために理論武装しているのか」ということを一旦忘れてしまうと、気付かないうちに「正しさの奴隷」になってしまう危険性があるんですよ。
正しさの持つ依存性は麻薬にも引けをとらない
「正しさ」には不思議な魅力があります。正しいことをしたい、正しい人間になりたいと思うことが誰しも一度はあるでしょう。
ではその正しさは誰が決めるのかと言えば、これは他人です。自分じゃないんですよ。
だって、自分だけしかいない世界ではどんな行為が正しいのか分かりませんからね。正しさと言うのはどこまで言っても相対的にしか判断できません。
正しさを武器に何かを為そうとする人は姿形のない誰かに自分を委ねているのと同じです。
そしてどれほど正しい理論を組み立てて、自分を正しい人間に仕立て上げようとしても、
その正しさを「尊いと感じている人」がいなければ、受け入れてもらえないのです。
尊いという感覚は理論ではなく感情が導くもの。理論武装を施した人間同士の会話、その応酬の果てには「正しさ」しか存在せず、感情が置いてきぼりにされてしまっているのです。
拠って立つものを再確認する
正しいことを言ってるはずなのに周囲から人が離れていくのは、自分が正しくなくなったからではありません。自分の正しさが誰にも尊いと感じてもらえなくなったからなのです。
もし言葉を武器に誰かと闘おうとする時、即ち理論武装を必要とする時があったなら、
腕を組みながらでも、目を瞑りながらでも、飲み物を片手に持ちながらでも構いませんので、
そこまでして守りたかったものが何なのか言葉にできるよう意識してみましょう。
その守りたい何かのために闘う自分を誇れるように、そして他人が何かを守るために闘う姿を尊いと感じられるようになった時、正しさに左右されない「自分の理」が見つかるのです。