解答を解くことは出来ない
少子化、ひいては出生率の低下はだいぶ前から話題になっているわけですが、僕は「少子化問題」という単語にはかなり違和感を覚えます。
問題というのは試験には必ず存在しますが、現実には予期し得ないトラブルのことだと僕は考えます。「問題が生じる」って言い回しのごとく。
その意味で言えば、少子化は予期し得ないトラブルとは到底言えないと思うのです。
そもそも出生・出産の根底にあるのは欲求です。男女が「子供を生みたい」という結論にたどり着かなければ絶対に子供は生まれません。
子供を生みたいと思うきっかけは人それぞれだと思います。戦国時代さながらに跡継ぎ・世継ぎを望まれて、渋々子供を作る男女も中にはいるかもしれません。
しかし突き詰めれば、一人一人の「子供を生みたくない」という選択の集大成が少子化なのであって、それが「子供を生みたいのか、それとも生みたくないのか」という問いに対して出された解答である以上、少子化自体は問題として成立しようがないのです。
少子化を解決したいのであれば、「子供を生みたくない」という選択に至る原因を取り除くか、子供を生みたいと「思わせる」必要があるわけですが、その発想が現代の親子関係の歪みを生み出している可能性があるように思えてなりません。
親として慕われるという快楽の罠
少し穿った見方かもしれませんが、僕は日本人には親を神格化する癖があるように思えてなりません。「親信仰」をモットーにする「親教」の信者さんのような。
年齢を重ねるごとに、「なんだかんだ言っても親は自分を愛し、慈しみ、育ててくれた存在である」という意識を持つようになる人は多いと思います。
特に子育ての過程で、自分を奮い立たせ踏ん張った経験をすればするほど、そんな想いが頭をよぎるのはある意味自然なことなのでしょう。
ですが、それは子供としての自分が本当に納得できる話でしょうか。
「自分の親を崇め、その親と同一の存在になることで、子供に親としての自分を崇めさせる」
そういう連鎖が全くないと言えるでしょうか。僕はそうは思いません。
「尊属殺人」という考え方が半世紀前まで存在していた地域に、親を特別視させようとする意識が働いていなかったとは到底考えられないからです。
「親になることが自分の幸せにつながる」という人参をぶら下げられ、「子供を生みたいと思わされてしまった人」が数多く存在すると僕は確信しています。
一人の人間として子供に向き合うということ
僕は少子化の原因を、「子供を生む余裕」と「子供を生まないデメリット」を軸にして、出産や子育てを「煽る」やり方が通じなくなってきたからだと考えています。
種火がない状態で、いくら風を送っても炎にはなりません。
周囲に煽られたという建前はもはや成立せず、「子供を生みたい」という根底にある欲求と自分達の意思でその選択をしたという事実に向き合う時が来ているのです。
子育てに関する書籍やブログが一つの大きな勢力・カテゴリーになっているのは、今が子育てに前例のない時代であり、自分自身の決断を意識させられるからでもあるのでしょう。
そんな前例のない時代においては、今まで社会で形成されてきた「親子観」は足かせにしかなりません。
「何故自分をこの世に誕生させたのか」という疑問を子供に突きつけられた時、頼りになるとすれば圧倒的なまでの演技力か、飾り気のない本心だけです。
その疑問に対する解答を一人一人が持たない限り、親自身の希望として子供が誕生することはなく、少子化の流れが反転する時代は訪れないでしょう。