「幸せにしてくれ光線」の圧倒的プレッシャー
僕は円満な「家族関係」を築けてきたわけではないので、それに関わる話を聞くと、いまだに心がびりびりします。
反抗期や倦怠期と言った単語に象徴されるように、どの家庭にも衝突はあるでしょうが、その中でも致命的な亀裂になるものの一つが、親が子に放つ「幸せにしてくれ光線」です。
読んで字のごとく、自分の心を喜びや快感で満たしてくれるような行動を子供に求め、意識的あるいは無意識的に発動します。
これはどちらかと言えば女親に見られる傾向です。
表面上はどうあれ、心の底では親や身の回りの人間に愛されていないと感じている人が、「子育てなんて大変なことをした自分を愛して欲しい」と迫るイメージが典型的かと思います。
誰にも愛されないと感じるなら、自分で自分を愛してくれる存在を作ろうということですね。
これが男親の場合はもう少し変化球で、「世話してやってるんだから、俺のためになることをしろ」と考えています。「投資に見合った報酬が得られるべきである」という取引に近い感覚で子供に向き合っているパターンが多いのではないでしょうか。
そして、どちらも子供の自身の幸せには興味がないという点では変わりません。
大人二人の身勝手な期待を受け止めてなお真っ直ぐ育つ神童であれば話は別ですが、
それはその子が凄かったか、両親以外の良き師に巡り合えた可能性が極めて高いです。
大抵の子供はこういったプレッシャーに心身の健全な成長を妨げられ、年齢を重ねれば重ねるほど大きくなるそのプレッシャーを受け止めきれず、
悪くすれば、将来親に対する復讐を考えるまでになるでしょう。
親がごましてはいけないたった一つの問い
芥川龍之介の『河童』という小説をご存知でしょうか?
この小説では河童の出産が描写されているのですが、なんと母親のお腹から出ようとする時、子供は父親から生まれてくるか否かを問われるシーンがあるのです。
そのやりとりがこんな感じです。
「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」
このやりとり、なんとも考えさせられませんか?
無論、人間は生まれた時点でこんな受け答えは出来ませんし、仮に出来たとしても、人生何があるか分からないわけですから、生まれたいか否かなんて質問に答えるのは難しいでしょう。
でもですね、どれだけスピリチュアルな倫理観を持ちだしたとしても、
子供をこの世に誕生させるかどうかを「選べる」のは親であり、
子供はこの世に誕生するかどうかを「選べない」んですよ。
僕はこの一点、
「喜怒哀楽が無限に存在するこの世界に、一人の人間をその意思とは無関係に産み落とした」
という事実を親はもっと重く受け止めるべきだと今でも考えています。
親としての自分ではなく一人の人間としての自分を意識する
僕自身は子供はいないので、子育ての苦労というものを親の立場から見ることは出来ません。
ただ「子育てに苦労したという意識のある親の元で育った子供」として言えることはたくさんあります。それは僕だけではないはず。
子供は本来カオス、つまり混沌とした「変化」を好むのです。変化こそが子供の象徴であり、自らが変化を望まない性質ならばそもそも子供を作るべきじゃない。
「自分が考える子供の幸せ」ではなく、「子供自身が考える子供の幸せ」を自分の幸せと感じられることが親としてのスタートラインです。
自分の頭の中にある「理想の子供像」を押し付けている間は、相手の望まないものを買わせようとする詐欺師や押し売りと同じです。
そんなものを親と呼べるはずもなく、敬意も尊敬も持つ必要は全くないのです。