生きているのが間違いだ。だから正しさなんて蹴っ飛ばせ。

自分の正義を見つけるのが良いことだとは限らない

僕は子供の頃から公平性には定評のある人間だと言われてきました。まあ親しい友人とか子供の頃の通知表とか性格診断での話なので、信憑性に欠けると言われればそれまでですが…。

僕自身、「公平性」にはかなりこだわりがあると思っています。

ただそれは「どこにも偏らず、えこひいきしない」というような意味合いではなく、むしろ「我を通すなら、それ相応の覚悟を持つべきである」と考えるタイプ、とでも言えばいいんでしょうか。

例えるなら、「友人がテストのカンニングをしようとしたらリスクを嫌と言うほど説明はするけど止めたりはしない」とか、「他人のミスを許せないなら自分のミスも許さない」とか、そういうシチュエーションに納得感を覚えるんですよね。

「他人の行動に干渉をするならそのこと自体がリスクである」

「リスクを背負えないなら枠をはみ出してはいけない」

という自分ルールがあると言ってもいいかもしれません。それも昔から今に至るまで。

「正しく」生きようとすると一人になってしまう

そんな性格でしたから、僕は「自分の正しさ」を他人に主張することがほとんどなく、

同時にそれは「他人の正しさも受け入れない」人間であった、ということでもあります。

自分にも相手にも肩入れしない以上、ルールさえきちんと整備されていれば判断を誤ることはないわけですから、そういう人間の役割といったらやっぱり「調停者」なんですよね。

大学生の頃に裁判官を目指していたのは、そういう心の動きの表れだったと今は思います。

でも、そういう生き方を突き詰めていくと、何だって一人で決めなくてはいけませんから、「誰かと一緒に生きること」は絶対にできなくなってしまうんです。ずーっと。

それは一つの到達点ではありますが、同時にそこに至るまでは茨の道でもあります。

そういう生き方を選択するのは本人ですが、一度進めば容易に引き返すことは出来ません。

「正しさに殉じる」のは、目に見えないだけでそれほどリスキーなのです。

間違えてみる

人間というのは、脳の構造的にお互いの気持ちを分かり合うことは出来ません。

頭痛腹痛失恋失職、そういった物事のどれ一つとっても感じ方は人それぞれなわけで、

本当の意味で他人の苦しみや悲しみを理解することはできず、想像するしかないのです。

だから、どんな制度だろうと、どんな事情があろうと、どんな行動を取っても、

正しいと感じる人もいれば、間違っているとしか感じない人もいるでしょう。

そうなると、「公平」という考え方は空の星のようなもので、僕らに出来るのはせいぜい見上げることぐらい。目標地点にはなり得ません。

だったらいっそ、「やったらマズイこと」をしてみるのも一つの選択だと思うんですよ。

何にもせずに、何にも出来ずにいるよりは、その方が「生きてる」って感じはするんじゃないでしょうか。動かない人間は石像と変わりませんからね。

念の為言っておきますが、反社会的な行動をしろって意味じゃないですからね。

清く、正しく、笑顔で、間違えましょう!

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