毒はどこから生まれたの?
最近・・・ってほど最近じゃないかもですが、「オーガニック」とか「有機栽培」とか自然をウリにした商品が話題に挙がることが多くなりましたよね?
カラダに良いという触れ込みが事実かどうかはともかく、自然の恵みというものは人間にとってありがたいものであるのは間違いありません。
海や山、森や川、そういった大自然のシステムが作り出した空間は時にセラピーにだって利用されますから、「自然、すげえ!」ってなる人の気持ちはよくわかるんです。
けど! 自然にまつわるもの全てをありがたがる人達、いうなれば「自然の下僕」と表現するしかない人達については一言物申したい!
自然なんてものに自分の判断基準を委ねて満足なのかと!
自然は不便と退屈の代名詞だ
例えば人間の形成する社会、その厳しさについて「自然の摂理」とか「自然界ではよくあること」とか言って、その有り様をよしとする人って身の回りやネットで見かけたりしません?
ああいうこと言っちゃう人は一体どんな生活をしてきたのか、僕は不思議でなりません。
自然というのは人間に恵みをもたらす一面もありますが、同時に恐ろしいものであることは言うまでもありません。自然ってものに従って生きるのなら、そういう恐怖や怯えを否定しない、そもそもする必要がないって宣言してるようなもんです。
地震雷山火事津波、洪水竜巻雹日照り。自然は情け容赦なく人間に牙を剥きます。ハチやマムシ、猪や熊といった野生の生物が原因で人間が死に至る事故は日本でも毎年起こっています。
自然が引き起こす出来事をただ受け入れる、という人達はこういった災害や被害に対して嘆き怒り悲しんだりしない、あるいはしたくないとでも言うつもりなんでしょうか?
答えはNOです。そこまで透徹した生き方が出来る人は間違いなく少数派でしょう。そんな自然に擦り寄った考えがまかり通っていたら、科学技術や政治形態、時に哲学やエンタメにのめりこみ、人間の文化を発展させてきた人はもっと少なかったはず。
自然に価値はない、自然に意味はない、自然を否定しろって言ってんじゃないです。そもそも僕らも自然の一部なんだから否定したって仕方がない。
でも「否定しないこと」と「受け入れること」は違います。
せめて、人間らしく
誰かと対話する時、「相手を尊重する=相手の言い分を全て認める」ことにはならないですよね? 僕らが自然と向き合う時、あるいは自然という概念の影響を受けた誰かと向き合う時、「自然な生き方」を全部が全部認め、粛々と受け入れる必要は全くありません。
むしろ自然な生き方をしないという「選択」ができることこそ人間を人間らしくしている大きな特徴なんですよ。相手の生き方を否定することなく、しかしてそれに追従しない生き方を模索できる人間は「不自然を選べる生命」でもあります。
動植物やロボットは行動に逡巡があっても、自分の生き方や有り方について迷ったりしません。「自分はこれでいいのか」という問いを持つことはなく、最初から何をすればいいのかわかってしまっています。本能や習性、プログラムに従った行動を取る彼らは、最初から最後まで一本の道を歩いているのです。
でも人間は違います。振り返れば人生だって一本道かもしれませんが、進むときは無数に枝分かれしていて、別れ道に来る度に人間は頭で考え、心で感じ、未来を読み取ろうとします。
選択の基準は人によって様々ですが、「それが当たり前だから」「それが自然だから」なんて堂々と述べているようであれば、それは「選択」って行為をナメてるとしか考えられませんし感じられませんし読み取れません。そんな人は人間ではありません。その人は虫です!
ギリギリまで悩んで疲れて抗って、選び取りましょう。それが「人間らしさ」なのですから。