誰にも選ばれなかったモノ。

「選ばれること」にしか価値を見出せない不自由さ

僕も似たタイプなんですが、僕の友人Aには何かとマイナーなものを好むクセがあります。

これ自体は別段珍しいことではないし、生活に大きな支障があるわけではありません。

ただそういう性格の裏側には、「選ばれなかったモノの悲哀」と、

「選ばれたモノへの敵意」がどことなく存在していて、ときおりそれが見え隠れします。

Aは子供の頃にある夢を持ち、道半ばでそれを諦めることになりました。

彼は夢を追うことを選び、そして追い続けたその夢に選ばれることはなかったわけです。

必要とされなかったもの、メジャーではないもの。

ふとしたきっかけで、それらが自分と重なり、見過ごせなくなってしまうのでしょう。

それは「選ばれなかったこと」に対する歪んだ考え方のようにも思えてなりません。

「その先」には半分しか自分がいない

ベスト10、トップ3、メダリストといったわかりやすい賞賛の言葉の裏には、

それに選ばれなかった何かがあり、誰かがいます。

僕自身左眼がなく、他の人間とは明確な差異があったわけですから、

比較や競争、個性や平等という言葉たちにはずいぶん考えさせられました。

選ばれるとは必要とされることであり、必要とされることはその価値の保障でもあります。

選ばれることが自信につながることもあるでしょう。

何かの、あるいは誰かの価値を決めるのは常に周囲ですから、

生きているだけで、ただ存在するだけで価値があるということはあり得ません。

ただ、選ばれたからといって、それが自分にとって絶対にプラスになるとは限りません。

選ばれたその先には「選ばれた自分」しかおらず、「選ばれなかった自分」は置いてきぼりになり、選ばれた自分は選ばれなかった自分からの圧力を感じずにはいられないからです。

振り向いても「選ばれたはずの自分」はどこにもいない

確かに選ばれないこと、必要とされないことは僕らに不安をもたらします。

ですが、どんなに時が経とうとも、「その日その時その場所で選ばれなかった」という事実を変えることはできません。

「選ばれたはずの自分」はどこを探してもいるはずがないのです。

選ぶという行為は、未来に続く道に自分自身を仮配置することであり、誰かに選ばれた道の先には配置することはできません。

誰にも選ばれなかったその先に、自分で選んだその先に、自分が待っていてくれるのです。

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