生きている価値のない人へ。

ハッピーバースディー、僕!!

つい先日、31歳の誕生日を迎えたんですが、そういう日ってちょっと自分の生きる意味とか考えちゃうんですよね。

ほら、子供を20歳まで育てるのに何千万、なんて試算があるじゃないですか。

そういうの目にしちゃうと、偉人とまではいかないまでも、世の為人の為になる人物にならないといけないよなーって思いはするんですが、普段はなかなかそういうことは意識しないものですから、誕生日くらいは真剣に考えてみようかなと。

とはいえ、結論の出る話でもないのでうんうん唸るほどの話でもないのですが。

仮に自分がいない地球というものを考えてみても、多分今とそう変わらないでしょう。人一人が世界に与える影響ってそんな大層なものではないですし。

ただ「いてもいなくても大して変わらない」と「いない方がいい」は全く異なっていて、後者の考え方はあり得ないと思うんですよね。

言い訳を探して傷付く確率は

例えば、僕が生まれなければ、衣食住に関わるものから娯楽・嗜好品なんかに支払ったお金、

要は僕の成長に掛かった「費用」が全てなかったことになります。

さらに、僕はお肉やお魚など限りある命を頂いているわけですから、

そういった「命の消費」も抑えることが可能だった、と言えるでしょう。

これに対して、僕が生まれ、そして長く生きれば生きるほど生じる様々な「効果」は、明確に数値化出来るものではありません。

両親の笑顔が増えたとか、友人の助けになったとか、ボランディアに精を出したとか、

僕が今までしてきた行為全てに、何の意味もなかったとは思いません。

しかし、それは僕がいなかった時に比べて費用対効果が高かったか。

「僕が生き続けること」「僕が失わせ続けるもの」に見合うほど意味のある行為なのか。

もしそう聞かれたら、僕はこう答えるでしょう。

「ったりめーだバーロー!」と。

明日、何かしよう

確かに僕の存在が周囲に悪影響を及ぼすことはあります。僕がいないことで恩恵を受けられる誰かや何かもあることでしょう。

が、それでもなお僕がいないことが絶対的にプラスに働くわけではないんですよ。

何故なら、僕に限らず、また人間に限らず、あるいは動物に限らず、

「命を持ったものが生き続ける」ことは「世界を丸々一つ創造する」ことと同じだからです。

人が認識する世界、猫が認識する世界、魚が認識する世界、花が認識する世界。

感覚器が異なる以上、それぞれの世界の感じ方は異なっているはずです。

仮に同じ土地に存在していたとしても、それぞれ違う今日を生きていると言えるでしょう。

一つ一つの生命が、場所も時間も環境も感覚も異なる日々を送っている以上、

生命は「自分の生きる自分だけの世界」を持っていることになります。

人間に限れば様々な基準が用いることで、「あれは良いものだ。これは悪いものだ」という判断を下していますが、本来僕の生命は「世界」と表現され得るもの全てに匹敵するのですよ。

これを失うのが損失でなくて何だと言うのですか!

勿論、世界を背負う生命同士が時にぶつかり合い、闘争を引き起こすこともあります。

だから僕が犯罪者にでもなって、それでもなお「全く問題ありません! 反省しません!」

なんて宣言でもすれば、他人の世界との摩擦でとても生きづらい状態に陥るでしょう。

もっとも、他人の世界をことごとく捻じ伏せる稀代の大英雄や大悪党と呼ばれる人間もいるので、一概には言えないのですが。

あるいは、そういう摩擦を道徳やら経済やら科学やらで人間同士の価値観をすり合わせてきたのが人間の歴史なのかもしれません。

例外がないとは言えませんが、生まれてきた意味は違えど、存在しないほうがいい人っていうのはそうそういやしないんです。生きて世界を創り続けましょう!

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