ただの子供でいられない窮屈さ。

舞台俳優にでも育てるつもりなのか

僕が今働いている職場の近くに小学校の体育館があるんですが、

今日は一学年くらいの人数が集まって、ソーラン節の練習をしていました。

秋の運動会とかで発表するんでしょう。先生方も指導に熱が入っているようで、こちらにまで元気な声が響いてきました。

と、こんな風に表現すると爽やかに感じるかもしれませんが、僕自身はそんな気分ではなく、

「今あそこにいる子供達の何人がこの練習を本当に望んでいるのだろうか」

と、昔の自分を重ねて、少し複雑な気分になってしまいました。

僕は運動会の時に食べるお弁当や、振り替え休日である月曜日に朝からゲームをやるのは好きでしたが、運動会自体は自分が活躍出来るわけでもなく、何より入場練習や応援合戦のリハーサルなどの「滞りなく運動会を終える」ための儀式めいた習慣が大嫌いでした。

運動会が終わった後のHRで、「みんな上手くできたね。頑張ったね」とコメントする教師の満足そうな雰囲気色んな意味で忘れられません。

あの時の学校は子供達のためではなく、大人達のためにあったものなのだと、今になってひしひしと感じています。

ありのままの子供には興味がない大人達

学芸会なんかもそうなんですが、学校行事(とりわけ外部の目があるもの)にはしつこいくらいリハーサルや練習をさせられるものがあります。

年齢を重ねれば、リハーサルなんかほとんどないまま本番に臨むことなどいくらでもある、と分かっている大人達が近くにいるのに。

この滑稽さをどう表現したらいいのか、ちょっとわかりません。

一致団結して一つのことを成し遂げる経験、そういうものを身につけるためと言えば聞こえはいいかもしれませんが、やるのは学校にいる生徒です。

その行事を「やる」か「やらない」かを決める権利は本人達に持たせるべきでしょう。

そうしないのは、「やって欲しい」大人がいるからです。

そして、そういう大人はただの子供には興味がなく、「自分にとって好ましい子供」だけを見たいと考えています。

彼らは保護者かもしれませんし、教師かもしれませんし、近くに住むおっさんやおばさんかもしれません。

いずれにせよ、「誰のためにその行事を行うのか」という視点を抜いたら、

学校はそういう大人達の玩具箱に過ぎなくなってしまいます。

やりたくないことをやってる暇なんかない

今の学校の大半は「誰かの言うことを聞いていればなんとかなった時代」の遺物でしかありません。

誰の目にも分かるほど前衛的な改革をした学校を除けば、21世紀になって15年も経つのに、前時代のシステムを抱えたまま組織を運営しようとする学校なんて存在意義はないでしょう。

現代に生きる子供は、子供の頃の僕らなど及びもつかないくらい聡く、ある意味で狡猾です。

騙し合いや屁理屈で本人が望まないことをさせようとしても時間の無駄でしかありません。

仮に無理強いしたところでそれは問題の先送りでしかなく、より大きな葛藤となって、将来の本人を苦しめるだけです。

この窮屈さをぶち壊さなければならない時期が来ているのです。

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