飲んで忘れるという賢さ
大抵の人には、何年経っても忘れられない辛い出来事というものがあるかと思います。
人に愚痴るどころか、それを思い出すだけで胃がむかむかするレベルの人もいるでしょう。
僕は一つの職場に長く勤めたことがあまりないので、職場の同僚と飲み会をしたりすることは数えるくらいしかありませんでしたが、
「嫌なことは飲んで忘れろ」と言われた経験はやはりあります。
僕は「はあ」と気のない返事をしつつも、大体心の中ではこう返していました。
「どうせあんたは酒で忘れる程度の辛さしか体験してないんだろ」と。
今思えば、自分の体験を「酒でごまかせる程度の辛さ」にしたくなかったんでしょうが。
僕はアルコール類は一切飲まないことにしています。忘年会・新年会はもとより、正月のおとそやお祭りの時に振舞われる甘酒すら口に入れません。
でもそれくらい僕は恐れているんです。自分の経験した悔しさや悲しみが薄まることを。
なかったことにはできない
確かに昔を思い返しては後悔し、考えては悶々とし、なんてやっていたら時間の無駄です。
もはや取り戻せない過去に囚われて、無駄に自分のテンションを下げるのは有意義とは言えないでしょう。
しかし過去を全て忘れ、新しい自分と再出発することもやはりできないのです。
「自分の心の奥深くに刻まれた忌まわしい出来事を忘れたくても、その時に苦しんだ自分を置き去りにすることはしたくない」。
僕も含めて、そう感じる人達は「意味を求める気持ち」が常人より遥かに強く、
「時として辛く苦しい状況に陥ることは誰にだってある」ことに納得は出来ても、
「ただ辛く苦しい出来事が自分の身に起こる」ことに納得は出来ないからです。
自分に報いる
生きていれば自分の価値観というものは徐々に変化していきます。
自分の抱えている過去の無念、すなわち昔の自分にこだわり続けるのは馬鹿馬鹿しいと言われても仕方ないのかもしれません。
自分の体験した様々な出来事に意味はなく、その中でたまたま自分はヒドい目に会っただけで、そんなことはさっさと忘れたほうがいいと割り切れるなら、それはとてもスマートな生き方と言ってもいいでしょう。
ただ、過去に苦しんでいる自分を自覚してなお「忘れる」という選択ができないなら、自分だからこそ得た痛みを利用して、自分だけの何かを創り出すしかないんです。
苦しみや悲しみを「思い」出しては、それを「活かす」方法を考える。
自分の過去を「思活かす」ことで、それが無意味なことではなかったのだと再確認でき、
僕らは前に進んで行けるようになるのです。