トロフィーという承認を欲しがるゲーマーは一生渇いたまま。
こういうトロフィー機能にハマッてしまう人はさっさとゲームを辞めた方がいいでしょう。 トロフィーというものは「あなたはこういうことが出来た人」っていう外部からの承認なんです。 それはつまり「他人がいなければ成立しないもの」でもあります。 口ではどう言い繕っていたとしても、トロフィーを欲しがる人は他人と触れ合いたいんです。
こういうトロフィー機能にハマッてしまう人はさっさとゲームを辞めた方がいいでしょう。 トロフィーというものは「あなたはこういうことが出来た人」っていう外部からの承認なんです。 それはつまり「他人がいなければ成立しないもの」でもあります。 口ではどう言い繕っていたとしても、トロフィーを欲しがる人は他人と触れ合いたいんです。
でも「否定しないこと」と「受け入れること」は違います。 むしろ自然な生き方だろうと不自然な生き方だろうと「選択」できることこそが人間を人間らしくしている最大の特徴なんですよ。 それは「選択」って行為をナメてる ギリギリまで悩んで疲れて抗って、選び取りましょう。それが「人間らしさ」なのですから。
自分は誰かを傷つけたりなんかしていない、というのは大いなる傲慢です。 でも傷つけられたことを絶対に許さないのも人間だってことをどーして認められないのか。 自分の感情って安くないと思うんですよね。 感情を制御できるのが大人って言う人は、サイボーグにでも進化するつもりなの? いいんですよ、怒って。嫌って。憎んで。悲しんで。
「退職してから知らない所に一人で出かけるのが楽しくなった」と。 「一人一人が自分の育った場所を離れずに生きていくことが出来る」時代でもあったと思うのです。 「狭い世界の退屈さ」 「自宅と職場を往復する毎日」 年配の人は自分の走りぬけた時代にはできなかった「小さな冒険」を味わっているんだと思います。
野球は旬の過ぎた見世物 もう野球は国民的スポーツではない。 「興味がない人には届かない程度の影響力」しか持っていない 安くないと来てくれないのであれば、その人達が必要としているのはモノであってお店ではありません。 「相性の良いお客」と組まないと負担が大きくなるばかりなんですよ。 人間の持つ限りあるエネルギーの無駄遣い
人間は様々な理屈を用いて自分の正当性を主張します。「理論武装」と呼ばれるやつですね。 ただ、そういう理論武装を下敷きにした意思疎通はある意味「かっこ悪い」んですよ。 「正しさ」には不思議な魅力があります。 正しさを武器に何かを為そうとする人は姿形のない誰かに自分を委ねているのと同じです。 「自分の理」が見つかるのです。
「お客さんは店員を人間だと考えていないな」 どんな立場を与えられようが、人間が機械になれるわけがありません。 「気に入らない店員に食って掛かっている」わけではなく、 「食って掛かりたいから気に入らない部分を探している」だけなんですよ。 性質の悪い客の相手をするという「人の消耗」を排除すべきコストと認識していないのです。
人間は自分と他人を「どうでもいいものとして割り切れる」能力があると思うんですよ。 闘争が人間の本能だと言うのなら、この「スルー力」は理性の象徴とも言えます。 他人からの暴力(言葉の暴力とかも含みます)に脅かされる領域には、 「人間が育ってない」ということでもあるのでしょう。
ただ「いてもいなくても大して変わらない」と「いない方がいい」は全く異なっていて、後者の考え方はあり得ないと思うんですよね。 「僕が生き続けること」は「僕が失わせ続けるもの」に見合うほど意味のある行為なのか。 本来僕の生命は「世界」と表現され得るもの全てに匹敵するのですよ。 「全く問題ありません! 反省しません!」
でも人間は、自分で自分を息苦しく、いや「生き苦しく」している部分もあるんですよ。 誰もがこんな人生を歩めるわけじゃないのは、今の時代に生きる人ならご存知のはず。 あるいはそんな地点を通り過ぎて、諦観の域に達している人も・・・それどころか、中高年の二人に一人くらいは自分の人生を「どうでもいいもの」として捉えているのかも。