打ち出の小槌は誰のもの?
ニュースやラジオで一ドル何円っていう表示やアナウンスがされますよね?
大体は主要たるドルしか出ませんけど、本当は一ユーロ何円とか一ペソ何円とか、
他の貨幣に関する情報も表示されないだけで存在しています。
そうやってお金の価値が揺れ動くのが為替市場というものなのでしょうが、
何もそういう変動があるのはお金に限った話ではない。
誰かからは一円にも満たないモノが、誰かにとっては一億円に勝るモノに見える。
これはいつの時代も起きていることです。
僕も名画と呼ばれるものを間近に見ても「なんかにじんで見づらい…」って感じることもあれば、道端に落ちてた何かの部品であろう歯車を未だに貴重品入れに保管していたりします。
大事だと感じるモノは人によって様々で、他人にはその理由が不可解だったりするものです。
んで、そういうあらゆる事物に対する「レート」ってやつの決まり方は二種類あって、
「自分にとって必要だから価値がある」か「他人にとって必要だから価値がある」か。
突き詰めればこの二つに集約されます。
他人が欲しいものと自分の欲しいもの
例えば、超あったかい毛皮のコートがあったとして、これ一枚で冬を乗り切れるって言われたら、寒さ対策を強いられる地域の人からすれば価値がありますよね。
実際に買う買わないとなれば値段の問題もありますが、誰も必要としないってことはないはず。そこに住んでいるなら、そのコートの存在が無駄になることはないでしょう。
勿論、温暖な地域に住む人たちからすれば紛うことなき無用の長物でもあります。自分も他人もそんなものを必要とはしないでしょう。
ただこれは実用品の話で、嗜好品や芸術品となると話は違ってきます。
名画や名著、高級菓子や年代物のワインなどの面々は「人に価値を与えられた」のであって、
実用品のように「必要があったから価値がついた」わけではないのです。
欲しいのは何故と問い続ける
現代では、人に価値を与えられて世に出る商品がたくさんあります。
もし世界に一人しかいなくなっても、それを手元に置いておきたいか。
そういった基準を持ち続けられるかどうかで、ライフスタイルは大きく変わるでしょう
確かに、必要なものしかない人生というのは無味乾燥なものなのかもしれません。
でもそれなりの期間生きていれば、時には不必要なものに囲まれる時期もあるはず。
両方の時期を経験したと自分が思えたら、改めて自分に必要なものを洗い出してみることで、
心の贅肉を削ぎ落とせます。次の日ちょっと身軽になったように感じますよ!