生きられるものなら生きたいに決まってる
何日か前に、相模原市で自殺した中学生に関するニュースをちらっと見ました。
実際に何が起きたかは捜査関係者でもない僕には知るよしもありませんし、ある意味では
「どうでもいい」ことでもあります。
ただ、自殺という選択をした人、あるいはしそうになった人は、
「自分の中のマイナス感情に突き動かされてそうしたわけではない」と僕は考えています。
動物は基本的に自殺はしません。
自殺のように見える行為はいくつか例がありますし、例外的に自殺する動物もいるかもしれませんが、「本能的に死にたくなる」ことはまずないでしょう。
それは人間も例外ではありません。でも実際には自殺者が毎年出ます。
僕はこれが自殺がある意味では「理性的」なものであることを示唆しているように思えてならないのです。
自殺する人は打算と計算と理論を基に、その選択をするのではないか、と。
生きるのがハイリスク
人間はいつだって死なない方向に舵を取るものです。少なくとも感情的には。
最終的には絶対死にますが、生きている限り路線変更は基本的にありません。
生きるために危険に身を晒したり、その結果命を落とすことはあっても、「死ぬためだけ」に行動するということは不自然極まりないのです。
本来死にたくないはずなのに、人間がその感情を無視して死に向かうとすれば、
それは理性が動力になった時だと僕は思います。
「死んだほうがマシ」「生きてるほうがツライ」と言いたくなる様な状況は、現実でも仮想でも存在しますが、そういう時に飛び込みだの首吊りだの考えてしまうのは、感情に任せてヤケになっているのではなく、
「職場や学校に行くとひどい目に合う、かといって頼れる友達や家族もいない」
「お金はない、借金はある、才能はない、持病はある、恋人はいない、怨敵はいる」
というような、「生きてる方がツライことを証明する要素」が揃ってしまっているせいで、「死にたくない」っていう感情の抵抗が理性によって封殺されてしまっている状態なんです。
この状態が続けば、そりゃあ誰だって死にたくもなるでしょう。
生き残った人しか喋れない。
「死んだほうがいい」と本人が結論付けた時、自殺という名の爆弾の導火線に火が付きます。
その段階まで行ってしまった人は「生きてる方がツライ」と考えていますから、
これを覆すには「死ぬほうがツライ」か「生きてる方がツラくない」ことを証明してあげなければなりません。
でも真っ向からその証明をしてくれるほどの「いいこと」ってそうは起きないんですよね。
苦しい時誰かが手を差し伸べてくれるかどうかは、自分の生きてきた環境と運、この二つが大きく関わってきます。
そのどちらにも見放された場合、立ち直るのはほぼ無理だと思います。
ただ、それでも、それでもですね。生き残らないと恨み言すら言えないんですよ。
もし自殺してしまえば、自分の苦しみを誰かに知らせることすらできないのです。
だから自分だけで立ち直るとしたら、「復讐」を目標にしてでも生き延びましょう。
相手より幸せになれるよう自分を磨こうとか、仕事や勉強に打ち込んで相手を見返してやろうとかそういうサワヤカな目標を持てとは言いません。というか言えません。
もっと直接的かつ物騒な、「準備を整え、住所を突き止め、玉砕覚悟のお礼参り」的なものでも構いません。
まず「この恨み、晴らさでおくべきか」の精神から始めるより他にないのです。